58 朱印地(しゅいんち)本成寺(ほんじょう)寺領(じりょう)本成寺村(ほんじょうじむら)

 

 現在(げんざい)西本(にしほん)成寺(じょうじ)1丁目にある法華宗(ほっけしゅう)総本山本(そうほんざんほん)成寺(じょうじ)歴史(れきし)のある古い(てら)で、(おお)みそかに除夜(じょや)(かね)()()らされたり、2月3日の節分(せつぶん)(おに)おどりと(まめ)まきがあることでも有名(ゆうめい)です。総本山(そうほんざん)というのは全国(ぜんこく)の同じ宗派(しゅうは)寺院(じいん)をとりまとめ指導(しどう)する(てら)のことで、本成寺(ほんじょうじ)法華宗(ほっけしゅう)という宗派(しゅうは)全国(ぜんこく)(てら)のちょう(てん)にた()(てら)です。ですから、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)越後国(えちごのくに)新潟県(にいがたけん))を支配(しはい)していたころは、広い(てら)領地(りょうち)がありました。

 ところが越後(えちご)上杉(うえすぎ)()から堀秀治(ほりひではる)という(ひと)から領主(りょうしゅ)がかわると、本成寺(ほんじょうじ)のある地いきは新発田藩(しばたはん)支配地(しはいち)となり、本成寺(ほんじょうじ)領地(りょうち)は300(ごく)()められました。(むかし)(こめ)(りょう)(おも)さでなく体積(たいせき)(かぞ)えました。1石(1こく)は重さにすると150キログラムほどになります。300(こく)寺領(じりょう)ということは4万5千キログラムの(こめ)(しゅう)かくできる(ひろ)さの土地(とち)(てら)領地(りょうち)ということです。

 その()本成寺(ほんじょうじ)領地(りょうち)朱印地(しゅいんち)にするようにすすめられました。朱印地(しゅいんち)というのは、徳川(とくがわ)将軍(しょうぐん)年貢(ねんぐ)(いま)税金(ぜいきん))などを免除(めんじょ)することを公文書(こうぶんしょ)約束(やくそく)し、大きな朱色(しゅいろ)(いん)を押してしょう(にん)した土地(とち)という意味(いみ)です。

 そして朱印地(しゅいんち)になる(まえ)本成寺領(ほんじょうじりょう)実際(じっさい)(しゅう)かく(だか)新発田藩(しばたはん)本成寺(ほんじょうじ)の立ち会いで調査(ちょうさ)したところ、500(こく)であることが()かりました。そこで、本成寺領(ほんじょうじりょう)朱印地(しゅいんち)を500(こく)として(みと)めてもらうように、徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)(ねが)い出たのですが、結局(けっきょく)それが(みと)められず、朱印地(しゅいんち)本成寺領(ほんじょうじりょう)は300(こく)に決められ、(のこ)りの200(こく)新発田藩領(しばたはんりょう)ということになり、寺領(じりょう)本成寺村(ほんじょうじむら)藩領(はんりょう)本成寺村(ほんじょうじむら)に分けられることになりました。それが現在(げんざい)西本(にしほん)成寺(じょうじ)東本(ひがしほん)成寺(じょうじ)というかたちに(のこ)っています。(いま)から355年前(ねんまえ)のことです。(平成(へいせい)10年1月)