57 三条(さんじょう)村上領(むらかみりょう)となる

 

 三条藩(さんじょうはん)がなくなってから26年間、三条町(さんじょうまち)周辺(しゅうへん)村々(むらむら)出雲崎(いずもざき)代官所(だいかんしょ)支配(しはい)を受けてきましたが、慶安(けいあん)2年(1649)に村上藩領(むらかみはんりょう)となりました。

 どうして三条が越後((いま)新潟県(にいがたけん))のもっとも(きた)村上藩(むらかみはん)領地(りょうち)になったのでしょうか。村上藩(むらかみはん)江戸(えど)時代(じだい)はじめは村上周(むらかみす)防守(ほうのかみ)頼勝(よりかつ)という人が藩主(はんしゅ)でした。その()(ほり)丹後(たんご)守直奇(のかみなおより)藩主(はんしゅ)となり、その()時代(じだい)にあとつぎがないことから一時(いちじ)幕府領(ばくふりょう)となり、正保(しょうほ)元年(がんねん)(1644)には、(とお)江国掛川(おうみのくにかけがわ)(いま)静岡(しずおか)県掛川市(けんかけがわし))から本多(ほんだ)能登守(のとかみ)忠義(ただよし)村上(むらかみ)藩主(はんしゅ)として着任(ちゃくにん)しました。

 しかし、5年後、本多(ほんだ)忠義(ただよし)奥州(おうしゅう)白河藩(しらかわはん)(いま)福島(ふくしま)県白河市(けんしらかわし))へ国がえとなり、そのあとへ播州(ばんしゅう)姫路(ひめじ)(いま)兵庫県姫路市(ひょうごけんひめじし))の松平(まつだいら)藤松(ふじまつ)村上(むらかみ)藩主(はんしゅ)となりました。松平(まつだいら)藤松(ふじまつ)(ちち)は、徳川(とくがわ)家康(いえやす)(まご)にあたり、()直基(なおもと)といい、姫路城(ひめじじょう)(あるじ)でした。姫路城(ひめじじょう)は、中国(ちゅうごく)四国(しこく)九州(きゅうしゅう)に多い()(ざま)大名(だいみょう)徳川家(とくがわけ)家臣(かしん)でなかった大名(だいみょう))を監視(かんし)する重要(じゅうよう)場所(ばしょ)にあります。ところが、父直基(ちちなおもと)藤松(ふじまつ)がわずか7さいの(とき)急死(きゅうし)したため、藤松(ふじまつ)は幼くしてあとをついだのですが、7さいの姫路(ひめじ)城主(じょうしゅ)では、()(ざま)大名(だいみょう)へのにらみがきかないとみられ、姫路(ひめじ)から村上(むらかみ)のほうへ国がえとなったと考えられます。

 ただし、村上藩(むらかみはん)はそれまで10万石(まんごく)領地(りょうち)だったのですが、あらたに旧三条藩領(きゅうさんじょうはんりょう)がつけ加えられ、姫路藩(ひめじはん)と同じ15万石(まんごく)格付(かくづ)けされました。また、藤松(ふじまつ)という幼名(ようみょう)松平(まつだいら)大和(やまとの)守直矩(かみなおのり)(あらた)め、慶安(けいあん)2年から寛文(かんぶん)7年(1667)までの18年間、村上(むらかみ)藩主(はんしゅ)として、三条(さんじょう)をふくむ15万石(まんごく)領地(りょうち)支配(しはい)しました。(平成(へいせい)9年12月)