江戸時代初期は、現在の三条市になっている所は、いくつかの領地に分かれていました。その中で新発田藩の領地だった所も多くあります。新発田藩の初代藩主は溝口秀勝という人です。
溝口氏は、はじめは豊臣秀吉が天下をとっていた時代、九州の島津氏をせめた時に手がらをたて、上杉氏の越後の領主となった堀秀治の与力大名(大きな力のある大名の手助けをする武将)となっていました。堀氏が越後領主でなくなった後、慶長3年(1598)、はじめて独立した大名となり、新発田藩主として、現在の新発田市に城を構えることになりました。その時の領地は6万石で、その中に、現在の三条市になっているいくつかの村がふくまれています。
そのころの新発田藩「御領内高付帳」(新発田市立図書館蔵)という記録によりますと、三条市いきで新発田藩領だった所は、塚野目・井栗・保内・新保・曲渕・本成寺・中村(現在は西中となっています)・月岡・北鱈田(現在の東鱈田・西鱈田と考えられます)などです。これらの地いきを地図でみますと、嵐北地区(五十嵐川の右岸地いき)では三条藩領の村々を除く加茂川流いきの保内地区と井栗です。
また、嵐南地区(五十嵐川の左岸地いき)では、中世と言われた時代(鎌倉時代・室町時代)、大面荘にあった村々が新発田藩領であったことが分かります。これらの多くの村には、潟と言われる湿地があちこちにありました。それが新発田藩になってから新田開発(うめ立てなどをして新しく田んぼにすること)されることになります。(平成9年9月)
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