元和6年(1620)3月、三条城主だった市橋長勝が亡くなり、市橋家は近江国(今の滋賀県)の方へ移動させられ、三条城は一時、幕府出雲崎代官の預かりとなりました。やがてその年の5月、市橋家にかわって稲垣平右衛門重綱が新しい三条城の主となり、三条藩を領することになりました。
稲垣重綱の先祖は、伊勢国(今の三重県)の出身だったと言われ、後に長岡城主となる牧野氏の家来になっていました。その後、牧野氏とともに徳川家康の家来となり、重綱の父である稲垣長茂は伊勢崎(今の群馬県伊勢崎市)の城主になっていました。重綱も父のあとをついでいたのですが、元和元年(1615)の大坂夏の陣の戦いで大きな手がらをたて、越後国刈羽郡藤井(今の柏崎市にある地いき)の領主となり、さらに三条城主にとり立てられたわけです。その時の三条藩は2万3千石でした。
その領地は、出雲崎代官から重綱に引き渡された知行目録という書き付けによりますと、今の南蒲原郡と三島郡にかけて、三条市を中心にして五十嵐川右岸地いきと燕市から黒埼町までの中ノ口川の左岸地いき、それと分水町、三島郡寺泊町から和島村にかかる地いきでした。しかし、現在は三条市ですが、保内、井栗、塚野目、三貫地などの地いきや大島地区の大島、本成寺地区は三条藩の領地ではありませんでした。新しく三条城主となった稲垣重綱もわずか3年で三条をはなれることとなり、三条城は取りこわされることとなりますが、それは次回にお話します。(平成9年6月)
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