51 最後(さいご)三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)稲垣(いながき)重綱(しげつな)

 

 元和(げんな)6年(1620)3月、三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)だった市橋(いちはし)長勝(ながかつ)が亡くなり、市橋家(いちはしけ)近江国(おうみのくに)(いま)滋賀県(しがけん))の(ほう)移動(いどう)させられ、三条城(さんじょうじょう)一時(いちじ)幕府(ばくふ)出雲崎(いずもざき)代官(だいかん)(あず)かりとなりました。やがてその(とし)の5月、市橋家(いちはしけ)にかわって稲垣平(いながきへい)右衛門(えもん)重綱(しげつな)が新しい三条城(さんじょうじょう)(あるじ)となり、三条藩(さんじょうはん)を領することになりました。

 稲垣(いながき)重綱(しげつな)先祖(せんぞ)は、伊勢国(いせのくに)(いま)三重県(みえけん))の出身(しゅっしん)だったと言われ、(のち)長岡(ながおか)城主(じょうしゅ)となる牧野(まきの)()家来(けらい)になっていました。その()牧野(まきの)()とともに徳川(とくがわ)家康(いえやす)家来(けらい)となり、重綱(しげつな)(ちち)である稲垣(いながき)長茂(ながもち)伊勢崎(いせざき)(いま)群馬県(ぐんまけん)伊勢崎市(いせざきし))の城主(じょうしゅ)になっていました。重綱(しげつな)(ちち)のあとをついでいたのですが、元和(げんな)元年(がんねん)(1615)の大坂夏(おおさかなつ)(じん)の戦いで大きな()がらをたて、越後(えちご)国刈羽郡(のくにかりわぐん)藤井(ふじい)(いま)柏崎市(かしわざきし)にある地いき)の領主(りょうしゅ)となり、さらに三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)にとり立てられたわけです。その(とき)三条藩(さんじょうはん)は2万3千石(ぜんごく)でした。

 その領地(りょうち)は、出雲崎(いずもざき)代官(だいかん)から重綱(しげつな)に引き渡された知行(ちぎょう)目録(もくろく)という書き付けによりますと、(いま)南蒲原郡(みなみかんばらぐん)三島郡(さんとうぐん)にかけて、三条市(さんじょうし)中心(ちゅうしん)にして五十(いから)嵐川(しがわ)右岸地(うがんち)いきと燕市(つばめし)から黒埼町(くろさきまち)までの中ノ口川(なかのくちがわ)左岸地(さがんち)いき、それと分水町(ぶんすいまち)三島郡寺(さんとうぐんてら)泊町(どまりまち)から和島村(わしまむら)にかかる地いきでした。しかし、現在(げんざい)三条市(さんじょうし)ですが、保内(ほない)井栗(いぐり)塚野目(つかのめ)三貫地(さんがんじ)などの地いきや大島(おおじま)地区(ちく)大島(おおじま)本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)三条藩(さんじょうはん)領地(りょうち)ではありませんでした。新しく三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)となった稲垣(いながき)重綱(しげつな)もわずか3年で三条(さんじょう)をはなれることとなり、三条城(さんじょうじょう)は取りこわされることとなりますが、それは次回(じかい)にお話します。(平成(へいせい)9年6月)