元和2年(1616)に三条藩がたん生し、新しい城もできて、まだ3年もたたない元和5年に市橋長勝は、2代将軍徳川秀忠のお供をして京都へ行き、無事につとめを終えて三条へ帰って来ました。疲れをいやしていたのですが、その年のくれに病にたおれてしまいました。それでも正月には江戸城へ行かなければならず、病をおして江戸(今の東京)へ出かけました。
そのために病気はさらに重くなってしまいました。長勝は自分の命が長くないことを知り、元和6年(1620)3月に遺言状を書いて、老中(幕府の最高責任者、今の内閣)に差し出しました。その遺言状には「私が死んでも、家来は自分といっしょに苦労をともにしてきた者たちなので、よろしくお願いします」という意味のことが書いてありました。
市橋長勝にはあとつぎとなる子供がいませんでしたので、自分が死んだ後の市橋家とその家臣たちの行く末が大変、心配だったのです。そして、遺言状を書いた6日後の3月17日、江戸で亡くなりました。享年64さいの波乱に満ちた生涯でした。
長勝の死後、家来たちは相談をくりかえし、市橋家を存続させるために、長勝のおいである市橋左京(小兵衛とも言いました)をあとつぎに認めてもらうよう、月番老中土井利勝に嘆願書を提出しました。家来たちの中には市橋家が再興できなかったら自害(切腹)しようと誓い合う者もいました。その願いがかない、市橋家は三条藩から近江国(今の滋賀県)の仁正寺(今の日野町)へ移動にはなりましたが、2万石が与えられることになりました。これを知った家来たちはみんなばんざいを唱えたと言います。(平成9年5月)
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