49 新しい(あたらしい)三条城(さんじょうじょう)建造(けんぞう)

 

 元和(げんな)2年(1616)、三条藩(さんじょうはん)領主(りょうしゅ)となった市橋(しばし)長勝(ながかつ)は、三条城(さんじょうじょう)の建て替えを(おも)だった家来(けらい)相談(そうだん)しました。それまでの三条城(さんじょうじょう)は「三条島(さんじょうじま)(じょう)」と言われ、戦国(せんごく)時代(じだい)から()頃島(ころじま)先端(せんたん)(いま)三条(さんじょう)競馬場(けいばじょう)付近(ふきん)と言われている)近くにあって、信濃川(しなのがわ)大水(おおみず)になると、(しろ)周辺(しゅうへん)まで(みず)びたしになる状態(じょうたい)でした。また戦国(せんごく)時代(じだい)はたびたび(たたか)いがあり、(しろ)(ほり)や囲いなどが大変(たいへん)いたんでいました。そのため城を(べつ)場所(ばしょ)(うつ)し、(あたら)しい三条城(さんじょうじょう)建造(けんぞう)することになりました。

 (あたら)しい(しろ)(つく)るためには徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)(ゆる)しを()なければなりません。新城(しんじょう)建造(けんぞう)計画(けいかく)報告(ほうこく)すると、幕府(ばくふ)月番(つきばん)老中(ろうじゅう)(いま)内閣(ないかく)官房(かんぼう)長官(ちょうかん)のような役職(やくしょく))から、「三条城(さんじょうじょう)会津(あいづ)街道(かいどう)(いま)新潟県(にいがたけん)福島県(ふくしまけん)(むす)道路(どうろ))を監視(かんし)する重要(じゅうよう)(しろ)であるから、しっかりとした(しろ)にするように」といった意味(いみ)指示(しじ)があったということです。しかしそれだけでなく、(いま)までの三条城(さんじょうじょう)高田(たかだ)(いま)上越市(じょうえつし))の出先(でさき)(しろ)であったけれども、今度(こんど)(ちい)さいながらも独立(どくりつ)した三条藩(さんじょうはん)(しろ)として、りっぱな(しろ)(もと)められたわけです。


 そこで(あたら)しい三条城(さんじょうじょう)は、(ふる)(しろ)から3(ちょう)(やく)330メートル)ほどへだてた(ところ)の、(いま)元町(もとまち)旧古城町(きゅうこじょうまち)付近(ふきん))へ建造(けんぞう)されることになりました。その時代(じだい)五十(いから)嵐川(しがわ)(いま)三竹(さんちく)辺り(あたり)(なが)れが(ふた)つに()かれていました。(あたら)しい(しろ)五十(いから)嵐川(しがわ)(なが)れを(しろ)(かま)えに()かして築造(ちくぞう)したと言われています。市橋家(いちはしけ)のことを書いた『仁政(じんせい)要録(ようろく)()には「五十(いから)嵐川(しがわ)という大河(たいが)(きず)()め、新川(しんかわ)()り、(しろ)のすべての(ほり)(みず)()()れ、(しろ)の構えを要害(ようがい)とした」という意味(いみ)記録(きろく)(のこ)っています。(平成(へいせい)9年4月)