徳川家康の六男松平忠輝は、大坂夏の陣などの失態で元和2年(1616)越後から改易(領地を取り上げられること)になり、越後国(今の新潟県)は、いくつもの藩に分かつされて、関ヶ原の戦いや、大坂城ぜめに功績のあった武将たちに与えられました。それにより三条も一つの藩となり、市橋長勝という武将が初代藩主として三条城に入りました。

市橋氏の先祖は、美濃国(今の岐阜県)の出身で、室町時代の後期(約500年前)美濃国の領主土岐氏に仕え、戦国時代には同国を制圧した斎藤道三の家臣となりました。後に市橋長勝は織田信長に味方して戦功をあげ、信長が亡くなったあとは豊臣秀吉の家来になりました。
秀吉が死ぬと徳川家康がひきいる東軍と石田三成を中心とした西軍が関ヶ原で戦いましたが、その時は徳川方について、大手がらをたてました。そのことにより、長勝は伯耆国(今の鳥取県)の矢橋藩(今の東伯町)の藩主にとりたてられました。その時の石高は2万1000石余りでした。
石高というのは領地内の米の生産量のことで、藩主はそれを基準にして領内の者から年貢(税金)を徴収しました。市橋長勝は大坂夏の陣の戦いでも手がらをたてたことから、今度は三条藩主となり、4万1300石の大名にとりたてられたのです。
その時の三条藩の領地は、今の三条市の大半、及び西蒲原郡の燕市から黒崎町にいたる中ノ口川の左岸地いき、三島郡(今の寺泊町など)、古志郡(今の栃尾市周辺)などの一部だったと言われています。現在の三条市のうち塚野目、井栗、保内、新保、曲渕、本成寺、月岡、鱈田などは新発田藩でした。そのことはまた後で話します。(平成9年3月)
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