48 三条藩(さんじょうはん)成立(せいりつ)市橋(いちはし)()

 

 徳川(とくがわ)家康(いえやす)六男(ろくなん)松平(まつだいら)忠輝(ただしてる)は、大坂夏(おおさかなつ)(じん)などの失態(しったい)で元和2年(1616)越後(えちご)から改易(かいえき)領地(りょうち)を取り上げられること)になり、越後国(えちごのくに)(いま)新潟県(にいがたけん))は、いくつもの(はん)(ぶん)かつされて、関ヶ原(せきがはら)(たたか)いや、大坂城(おおさかじょう)ぜめに功績(こうせき)のあった武将(ぶしょう)たちに(あた)えられました。それにより三条(さんじょう)も一つの(はん)となり、市橋(いちはし)長勝(ながかつ)という武将(ぶしょう)初代(しょだい)藩主(はんしゅ)として三条城(さんじょうじょう)に入りました。

 市橋(いちはし)()先祖(せんぞ)は、美濃国(みののくに)(いま)岐阜県(ぎふけん))の出身(しゅっしん)で、室町(むろまち)時代(じだい)後期(こうき)(やく)500年前)美濃国(みののくに)領主(りょうしゅ)土岐(とき)()(つか)え、戦国(せんごく)時代(じだい)には同国(どうこく)制圧(せいあつ)した斎藤(さいとう)道三(どうさん)家臣(かしん)となりました。(あと)市橋(いちはし)長勝(ながかつ)織田(おだ)信長(のぶなが)味方(みかた)して戦功(せんこう)をあげ、信長(のぶなが)()くなったあとは豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)家来(けらい)になりました。

 秀吉(ひでよし)が死ぬと徳川(とくがわ)家康(いえやす)がひきいる東軍(とうぐん)石田三(いしだみつ)(なり)中心(ちゅうしん)とした西軍(せいぐん)関ヶ原(せきがはら)で戦いましたが、その(とき)徳川方(とくがわほう)について、大手(おおて)がらをたてました。そのことにより、長勝(ながかつ)伯耆国(ほうきのくに)(いま)鳥取県(とっとりけん))の矢橋藩(やばしはん)(いま)(とう)伯町(はくちょう))の藩主(はんしゅ)にとりたてられました。その(とき)石高(こくだか)は2万1000石(あま)りでした。

 石高(こくだか)というのは領地内(りょうちない)(こめ)生産量(せいさんりょう)のことで、藩主(はんしゅ)はそれを基準(きじゅん)にして領内(りょうない)(もの)から年貢(ねんぐ)税金(ぜいきん))を徴収(ちょうしゅう)しました。市橋(いちはし)長勝(ながかつ)大坂夏(おおさかなつ)(じん)の戦いでも()がらをたてたことから、今度(こんど)三条(さんじょう)藩主(はんしゅ)となり、4万1300(こく)大名(だいみょう)にとりたてられたのです。

 その(とき)三条藩(さんじょうはん)領地(りょうち)は、(いま)三条市(さんじょうし)大半(たいはん)、及び西蒲原郡(にしかんばらぐん)燕市(つばめし)から黒崎町(くろさきまち)にいたる中ノ口川(なかのくちかわ)左岸地(さがんち)いき、三島郡(さんとうぐん)(いま)寺泊町(てらどまりまち)など)、古志郡(こしぐん)(いま)栃尾市(とちおし)周辺(しゅうへん))などの一部(いちぶ)だったと言われています。現在(げんざい)三条市(さんじょうし)のうち塚野目(つかのめ)井栗(いぐり)保内(ほない)新保(しんぼ)曲渕(まがりふち)本成寺(ほんじょうじ)月岡(つきおか)鱈田(たらだ)などは新発田藩(しばたはん)でした。そのことはまた(あと)で話します。(平成(へいせい)9年3月)