44 上杉(うえすぎ)()会津(あいづ)移封(いほう)三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)となった堀直政(ほりなおまさ)

 

 豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)天下(てんか)統一(とういつ)した(あと)越後(えちご)(いま)新潟県(にいがたけん))の大名(だいみょう)であった上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)会津(あいづ)(いま)福島県(ふくしまけん))へ移封(いほう)となりました。移封(いほう)というのは領地(りょうち)がかわることを言います。上杉(うえすぎ)()会津(あいづ)移す(うつす)ことによって、関東(かんとう)(いま)東京都(とうきょうと)中心(ちゅうしん)とした地方(ちほう))の徳川(とくがわ)家康(いえやす)や、奥州(おうしゅう)(いま)宮城県(みやぎけん)中心(ちゅうしん)とした東北(とうほく)地方(ちほう))の伊達(だて)政宗(まさむね)(うご)きを上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)監視(かんし)させる意味(いみ)と、越後(えちご)から上杉(うえすぎ)()切り(きり)離すねらいが豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)にあったのです。

 上杉(うえすぎ)氏が越後(えちご)からはなれた(あと)に、堀秀治(ほりひではる)という武将(ぶしょう)北ノ庄(きたのしょう)(いま)福井県(ふくいけん))から移ってきました。そして、堀秀(ほりひで)(はる)をささえる与力(よりき)大名(だいみょう)として、本庄城(ほんじょうじょう)(いま)村上市(むらかみし))に村上(むらかみ)(より) (かつ)新発田城(しばたじょう)には溝口(みぞぐち)秀勝(ひでかつ)三条城(さんじょうしろ)(ほり) 直政(なおまさ)、ほかに、()王城(おうじょう)(いま)長岡市(ながおかし))、(とち)尾城(おじょう)などにも(ほり)()一族(いちぞく)武将(ぶしょう)たちが入りました。

 三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)となった堀直政(ほりなおまさ)は、監物(けんもつ)とも言い、越後(えちご)大名(だいみょう)となった堀秀治(ほりひではる)(ちち)秀政(ひでまさ)従兄弟(いとこ)にあたり、秀政(ひでまさ)豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)有力(ゆうりょく)家来(けらい)として、秀吉(ひでよし)天下(てんか)統一(とういつ)(とき)(かつ)やくしました。たとえば、秀吉(ひでよし)羽柴(はしば)という(せい)時代(じだい)織田(おだ)信長(のぶなが)のあとをめぐって、山崎(やまさき)という(ところ)明智(あけち)光秀(みつひで)と戦いましたが、堀秀政(ほりひでまさ)はそこで()がらをたてました。そして、秀政(ひでまさ)のもとで(かつ)やくしたのが堀直政(ほりなおまさ)でした。

 三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)となった直政(なおまさ)は、(わか)堀秀(ほりひで)(はる)をささえるために、春日山城(かすがやまじょう)(いま)上越市(じょうえつし))へ()っていることが多く(おおく)三条城(さんじょうじょう)息子(むすこ)直次(なおつぐ)(まも)らせていました。堀直政(ほりなおまさ)慶長(けいちょう)13年(1608)、62さいで()くなりました。(平成(へいせい)8年10月)