豊臣秀吉が天下を統一した後、越後(今の新潟県)の大名であった上杉景勝は会津(今の福島県)へ移封となりました。移封というのは領地がかわることを言います。上杉氏を会津へ移すことによって、関東(今の東京都を中心とした地方)の徳川家康や、奥州(今の宮城県を中心とした東北地方)の伊達政宗の動きを上杉景勝に監視させる意味と、越後から上杉氏を切り離すねらいが豊臣秀吉にあったのです。
上杉氏が越後からはなれた後に、堀秀治という武将が北ノ庄(今の福井県)から移ってきました。そして、堀秀治をささえる与力大名として、本庄城(今の村上市)に村上頼 勝、新発田城には溝口秀勝、三条城は堀 直政、ほかに、蔵王城(今の長岡市)、栃尾城などにも堀氏の一族の武将たちが入りました。
三条城主となった堀直政は、監物とも言い、越後の大名となった堀秀治の父、秀政の従兄弟にあたり、秀政は豊臣秀吉の有力な家来として、秀吉の天下統一の時に活やくしました。たとえば、秀吉が羽柴という姓の時代、織田信長のあとをめぐって、山崎という所で明智光秀と戦いましたが、堀秀政はそこで手がらをたてました。そして、秀政のもとで活やくしたのが堀直政でした。
三条城主となった直政は、若い堀秀治をささえるために、春日山城(今の上越市)へ行っていることが多く、三条城は息子の直次に守らせていました。堀直政は慶長13年(1608)、62さいで亡くなりました。(平成8年10月)
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