NHKのテレビドラマで「秀吉」という番組がありました。みなさんのお父さんやお母さん、特におじいさんが熱心に見ていたのではないでしょうか。その主人公は豊臣秀吉で、今から400年前に戦いにあけくれていた日本を統一し、関白という最もえらい位につきました。そして、そのころ越後国(今の新潟県)の支配者となっていた上杉景勝も秀吉にしたがうようになりました。
豊臣秀吉は全国にどれだけの田畑や屋しき(人の住む土地)があり、米などの作物がどれだけ収かくするのかを調査するように命令しました。そのころの税金である年貢を少しでも多くとりたてる目的で行ったものです。その調査を検地と言います。秀吉のことを太閤殿下ともよびましたので、この時の検地を太閤検地とも言いました。

検地帳は検地の内容を記録した帳ぼのことです。越後国では、文禄2年(1593)に検地が行われ、現在の三条市の各地区も調査したものと考えられますが、記録として残っているのは井栗村(現在の三条市大字井栗を中心とした地区)の検地帳だけで、新発田市立図書館に所蔵されています。
では、その検地帳にどんなことが記録されているのでしょうか。その時の検地奉行(検地を実しする長官)は増田長盛という豊臣秀吉直属の部下でした。検地帳には田畑の名前や面積、そしてその田は米が多くとれるよい田か収かくの少ない悪い田かの区分け、収かくする米の量、耕作している人の名前などが記録されています。では、その記録から400年前の村の様子や田畑や米の計算単位はどうであったかなどの具体的なことは次でお話します。(平成8年7月)
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