また三条城についての話にもどります。天正5年(1577)9月に、三条城主であった山吉豊守が亡くなり(34話を見てください)、豊守に子供がいなかったことから、その代わりとして神余親綱が新しい三条城主となりました。
神余氏は、そのころの日本の都であった京都の事情にくわしかったようで、上杉謙信の家臣として越後と京都の連らく係のような役わりをしていた家柄だったと言われています。それが上杉謙信によって三条城主にばってきされたのです。
しかし、上杉謙信はよく年3月、病気でとつぜん亡くなり謙信のあとつぎをめぐって、上杉景勝と上杉景虎が争うことになりました。上杉謙信には子供がなく、二人とも謙信の養子でした。景勝は春日山城(今の上越市春日山)を本拠とし、景虎は御館城(今の上越市直江津に近い五智という辺り)にたてこもりました。戦いは御館城のこう防であったことから、後に「御館の乱」と言われてます。
この戦いで越後国の武将たちも両方に分かれて戦うことになりました。三条城主の神余親綱は栃尾城の本庄秀綱らとともに景虎方について、景勝の味方をする武士たちと戦いました。三条周辺では景虎側が有勢だったのですが、頸城地方や魚沼地方では景勝方の勢力が強く、天正7年(1579)3月に御館城は落城し、景虎は関東へにげると中で自殺しました。
味方の大将を失った三条を中心とする景虎方は、それでも結束して戦ったのですが、1年後の天正8年(1580)6月に三条城も落城し、神余親綱も自殺しました。三条城が落城したのは内部から景勝方へ味方するものがあったからと言われています。(平成8年5月)
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