39 御館(おたて)(らん)三条城(さんじょうじょう)落城(らくじょう)

 

 また三条城(さんじょうじょう)についての(はなし)にもどります。天正(てんしょう)5年(1577)9月に、三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)であった山吉(やまよし)豊守(とよもり)()くなり(34話を見てください)、豊守(とよもり)子供(こども)がいなかったことから、その代わりとして神余(かなまり)親綱(ちかつな)(あたら)しい三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)となりました。

 神余(かなまり)()は、そのころの日本(にほん)(みやこ)であった京都(きょうと)事情(じじょう)にくわしかったようで、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)家臣(かしん)として越後(えちご)京都(きょうと)(れん)らく(がかり)のような(やく)わりをしていた家柄(いえがら)だったと()われています。それが上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)によって三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)にばってきされたのです。

 しかし、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)はよく年3月、病気(びょうき)でとつぜん()くなり謙信(けんしん)のあとつぎをめぐって、上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)上杉(うえすぎ)景虎(かげとら)(あらそ)うことになりました。上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)には子供(こども)がなく、二人(ふたり)とも謙信(けんしん)養子(ようし)でした。景勝(かげかつ)春日山城(かすがやまじょう)(いま)上越市(じょうえつし)春日山(かすがやま))を本拠(ほんきょ)とし、景虎(かげとら)御館城(おたてじょう)(いま)上越市(じょうえつし)直江津(なおえつ)に近い五智(ごち)という(あた)り)にたてこもりました。戦い(たたかい)御館城(おたてじょう)のこう(ぼう)であったことから、(のち)に「御館(おたて)(らん)」と言われてます。

 この戦いで越後国(えちごのくに)武将(ぶしょう)たちも両方(りょうほう)()かれて(たたか)うことになりました。三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)神余(かなまり)親綱(ちかつな)(とち)尾城(おじょう)本庄(ほんじょう)秀綱(ひでつな)らとともに景虎方(かげとらがた)について、景勝(かげかつ)味方(みかた)をする武士(ぶし)たちと戦いました(たたかいました)三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)では景虎側(かげとらがわ)有勢(ゆうぜい)だったのですが、(くび)城地方(きちほう)魚沼(うおぬま)地方(ちほう)では景勝方(かげかつがた)勢力(せいりょく)が強く、天正(てんしょう)7年(1579)3月に御館城(おたてじょう)落城(らくじょう)し、景虎(かげとら)関東(かんとう)へにげると(なか)自殺(じさつ)しました。

 味方(みかた)大将(たいしょう)を失った三条(さんじょう)中心(ちゅうしん)とする景虎方(かげとらがた)は、それでも結束(けっそく)して戦ったのですが、1年後の天正(てんしょう)8年(1580)6月(6がつ)三条城(3じょうじょう)落城(らくじょう)し、神余(かなまり)親綱(ちksつな)自殺(じさつ)しました。三条城(さんじょうじょう)落城(らくじょう)したのは内部(ないぶ)から景勝方(かげかつがた)味方(みかた)するものがあったからと言われています。(平成(へいせい)8年5月)