38 戦国(せんごく)時代(じだい)三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)地名(ちめい)

 

 今回(こんかい)本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)地名(ちめい)(たず)ねてみましょう。本成寺(ほんじょうじ)という地名(ちめい)は、(いま)から700年ほど前に本成寺(ほんじょうじ)というお(てら)()てられたことから、その(てら)名前(なまえ)地名(ちめい)になったもので、それ以前(いぜん)薄曽根(すすきそね)という地名(ちめい)だったと言われています。

 曽根(そね)というのは、「周囲(しゅうい)(かわ)(ぬま)などがあるやせた土地(とち)」という意味(いみ)で、きっとススキがたくさん()えた()()のような(ところ)だったのが、本成寺(ほんじょうじ)()てられるとともに(かい)たくされ、500年前ころにはすでに本成寺村(ほんじょうじむら)となり、本成寺(ほんじょうじ)寺領(じりょう)になったものと(かんが)えられます。本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)南側(みなみがわ)(さん)ろくの(ちか)くの月岡(つきおか)(ふる)くからある集落(しゅうらく)で、市営(しえい)野球場(やきゅうじょう)(つく)られた(とき)、その(あた)りから700年以上前(いじょうまえ)(ひと)使(つか)ったと(おも)われる食器(しょっき)下駄(げた)井戸(いど)などの生活(せいかつ)用具(ようぐ)やし(せつ)発見(はっけん)されています。


 月岡(つきおか)のとなりの如法寺(にょほうじ)は、本成寺(ほんじょうじ)と同じく寺の名前(なまえ)地名(ちめい)となったものです。吉田(よしだ)戦国(せんごく)時代(じだい)記録(きろく)に出てくる地名(ちめい)です。本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)(なか)ほどにある片口(かたくち)という集落(しゅうらく)戦国(せんごく)時代(じだい)は「(かた)くち村」とあり、また「袋村(ふくろむら)」もあります。

 しかし「鱈田(たらだ)」は三条(さんじょう)記録(きろく)にはあまり出てきません。これは鱈田(たらだ)三条(さんじょう)よりも大面(おおも)(いま)栄町(さかえまち))と関係(かんけい)が深かったからではないかと思います。ほかの記録(きろく)で「かんはらのこほりのうちたら()」と書きしるしたものがあることがそれを物語(ものがた)っているのではないかと(かんが)えます。栄町(さかえまち)との境界(きょうかい)にある長嶺(ながみね)三条(さんじょう)記録(きろく)にあまり出て(でて)きません。そのころは(ふくろ)片口(かたぐち)鱈田(たらだ)長嶺(ながみね)(あた)りの所が、三条(さんじょう)大面(おおも)境界(きょうかい)になっていたのではないでしょうか。(平成(へいせい)8年4月)