36 戦国(せんごく)時代(じだい)三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)地名(ちめい)

 

 前回(ぜんかい)三条市(さんじょうし)中心部(ちゅうしんぶ)(あた)りの(いま)から400年前(ねんまえ)ころの地名(ちめい)について()きましたが、今度(こんど)(すこ)しはなれた、(むかし)(むら)だった(ところ)地名(ちめい)(さぐ)ってみましょう。まず、井栗(いぐり)地区(ちく)()()けると「いぐり」という地名(ちめい)大変(たいへん)(ふる)地名(ちめい)で、(いま)から千年(せんねん)以上(いじょう)(まえ)からある地名(ちめい)です。日本(にほん)一番(いちばん)(ふる)歌集(かしゅう)である()万葉集(まんようしゅう)()(なか)にも「()久里(くり)」という地名(ちめい)があり、それが三条市(さんじょうし)井栗(いくり)のことではないかと()われています。

 その(ほか)戦国(せんごく)時代(じだい)記録(きろく)()てくる(ふる)地名(ちめい)では「塚ノ目村(つかのめむら)」があります。(いま)から400年前ころは、(いま)三条(さんじょう)総合(そうごう)病院(びょういん)近くから嘉坪川(かつぼがわ)栗林(くりばやし)などの(あた)りにかけて「(おお)つき(がた)」という(おお)きな(ぬま)がありました。塚ノ目(つかのめ)(いま)塚野目(つかのめ)と書きます)は、その(おお)つき(がた)南側(みなみがわ)にあって、その近くの湿地(しっち)(じめじめした荒地(あれち))などを(かい)たくした(ひと)たちが(むら)(つく)って()んでいたのではないでしょうか。

 しかし、井栗(いぐり)地区(ちく)で、(いま)はたくさんの(いえ)があって学校(がっこう)などもある鶴田(つるだ)下谷地(しもやち)西潟(にしかた)信濃川(しなのがわ)右岸(うがん)土手(どて)近くにある三貫地(さんがんじ)柳川(やながわ)柳場(やなぎば)須戸(すど)北野(きたの)白山(しらやま)といった集落(しゅうらく)地名(ちめい)記録(きろく)(なか)に出てきません。(いま)はその辺りは工場(こうじょう)があったり、公共(こうきょう)(せつ)があったりして、たいへん(はっ)てんしてきていますが、その辺りの土地(とち)は、新田(しんでん)と言って戦国(せんごく)時代(じだい)のあと、江戸(えど)時代(じだい)になってから、荒地(あれち)(かい)たくして(ひと)()むようになった土地(とち)だったのです。新田(しんでん)()われた(あた)りは(ひく)土地(とち)だったので、時々(ときどき)大雨(おおあめ)でこう(みず)になったりして、まだ村人(むらびと)たちが安心(あんしん)して()める場所(ばしょ)になっていなかったのではないでしょうか。(平成(へいせい)8年2月)