34 山吉(やまよし)豊守(とよもり)()と「三条(さんじょう)闕所(けっしょ)御帳(おんちょう)

 

 戦国(せんごく)時代(じだい)上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)のそばで(かつ)やくしていた三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)山吉(やまよし)豊守(とよもり)天正(てんしょう)5年(1577)9月になくなり、豊守(とよもり)に子どもがいなかったために、(おとうと)景長(かげなが)という人が(やま)吉家(よしけ)をつぐことになりました。しかし領地(りょうち)半分(はんぶん)()らされて、三条城(さんじょうじょう)から木場城(きばじょう)(いま)西蒲原郡(にしかんばらぐん)黒埼町(くろさきまち))へ(うつ)されることになり、三条城(さんじょうじょう)へは神余(かなまり)親綱(ちかつな)という武将(ぶしょう)(はい)ることになりました。

 「三条(さんじょう)闕所(けっしょ)御帳(おんちょう)」というのは、その(とき)のことを()きしるした帳面(ちょうめん)名前(なまえ)です。闕所(けっしょ)という大変(たいへん)むつかしい()()いてありますが、「けっしょ」というのは領地(りょうち)でなくなったとか、なにかの理由(りゆう)()()げられた土地(とち)領地(りょうち))、というような意味(いみ)です。この帳面(ちょうめん)と同じ時期(じき)記録(きろく)された「三条(さんじょう)同名(どうめい)同心(どうしん)家風(かふう)給分御帳(きゅうぶんおんちょう)」という帳面(ちょうめん)も残っています。

 この2(さつ)帳面(ちょうめん)によって、山吉(やまよし)豊守(とよもり)三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)であったころの領地(りょうち)やどんな武士(ぶし)たちが家来(けらい)だったかなどが()かります。そして、(やま)吉家(よしけ)の多くの家来(けらい)たちは三条(さんじょう)(しろ)のある(まち)三条町(さんじょうまち))に住んでいなくて、領地(りょうち)(むら)などにふだんは住んで(すんで)いて農業(のうぎょう)(おこな)い、いざ(たたか)いという(とき)には、みんながよろいかぶとを()につけて、(かたな)ややりを()って三条城(じょうじょう)(あつ)まり、(たたか)いに(そな)えました。このようなあり(かた)を「在地(ざいち)支配(しはい)」と言います。

 また、「武士(ぶし)は戦いだけをする、農家(のうか)田畑(たはた)専門(せんもん)(たがや)す」というのを兵農(へいのう)分離(ぶんり)と言いますが、(いま)から420年前ころはまだそのような兵農(へいのう)分離(ぶんり)ができていなかった、というようなことも()かります。その()三条(さんじょう)城主(じょうしゅ)領地(りょうち)だった(むら)地名(ちめい)なども()かるのですが、戦国(せんごく)時代(じだい)地名(ちめい)についてはこの(つぎ)説明(せつめい)します。(平成(へいせい)7年12月)