32 永正(えいしょう)(らん)三条(さんじょう)付近(ふきん)(たたか)

 

 (いま)から500年以上(いじょう)(むかし)は、政治(せいじ)中心(ちゅうしん)京都(きょうと)にあって、室町(むろまち)幕府(ばくふ)将軍(しょうぐん)足利(あしかが)義政(よしまさ)という(ひと)最高(さいこう)(くらい)にありました。しかし、義政(よしまさ)政治(せいじ)には熱心(ねっしん)でなく、また義政(よしまさ)のあとつぎをめぐって(あらそ)いが()きて、それが10年も(つづ)くことになりました。応仁(おうにん)(らん)と言います。

 そのために、全国(ぜんこく)各地(かくち)でも(あらそ)いが()えなくなりました。戦国(せんごく)時代(じだい)(はじ)まりです。そのころのことを下剋上(げこくじょう)と言って、身分(みぶん)(ひく)(もの)主人(しゅじん)目上(めうえ)(ひと)()()したり(ころ)したりして自分(じぶん)主人(しゅじん)になりかわるということが(おお)くありました。越後国(えちごのくに)(いま)新潟県(にいがたけん))でも、前回(ぜんかい)()べた応永(おうえい)(たたか)いから81年後の永正(えいしょう)4年(1507)に、守護(しゅご)(いま)(けん)知事(ちじ)のような役職(やくしょく))の上杉(うえすぎ)房能(ふさよし)に、その下の(くらい)守護代(しゅごだい)長尾(ながお)為景(ためかげ)がそむき、(たたか)いになりました。応永(おうえい)の戦いもやはり守護(しゅご)守護代(しゅごだい)(あらそ)いによるものでした。


 しかし、これらの(たたか)いは単純(たんじゅん)勢力(せいりょく)(あらそ)いではなく、越後(えちご)有力(ゆうりょく)武士(ぶし)たちの利害(りがい)(ちか)くの(くに)会津(あいづ)(いま)福島県(ふくしまけん))・信濃(しなの)(いま)長野県(ながのけん))や関東(かんとう)地方(ちほう)豪族(ごうぞく)をも()()んでの(たたか)いでした。三条島(さんじょうしま)(じょう)をはじめ(ちか)くにある(しろ)でも地元(じもと)武士(ぶし)たちが敵味方(てきみかた)()かれて(たたか)いました。

 三条島(さんじょうしま)(じょう)田上(たがみ)護摩(ごま)堂山城(どうやまじょう)大面城(おおもじょう)(いま)栄町(さかえまち))、黒滝城(くろたきじょう)弥彦村(やひこむら))などが戦場(せんじょう)となりました。三条(さんじょう)には山吉孫(やまよしまご)次郎(じろう)という武将(ぶしょう)がいて、長尾(ながお)為景(ためかげ)味方(みかた)をして(かつ)やくしました。為景(ためかげ)本成寺(ほんじょうじ)にあてた手紙(てがみ)(なか)に「(たたか)いで山吉(やまよし)()とともによく(はたら)いてくれた」という意味(いみ)のことが()いてあり、このことから本成寺(ほんじょうじ)武士(ぶし)(おな)(ばたら)きをした僧兵(そうへい)がいて山吉(やまよし)()といっしょに相手(あいて)(たたか)ったことが()かります。(平成(へいせい)7年10(がつ)