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今から500年以上の昔は、政治の中心が京都にあって、室町幕府の将軍足利義政という人が最高の位にありました。しかし、義政は政治には熱心でなく、また義政のあとつぎをめぐって争いが起きて、それが10年も続くことになりました。応仁の乱と言います。
そのために、全国各地でも争いが絶えなくなりました。戦国時代の始まりです。そのころのことを下剋上と言って、身分の低い者が主人や目上の人を追い出したり殺したりして自分が主人になりかわるということが多くありました。越後国(今の新潟県)でも、前回に述べた応永の戦いから81年後の永正4年(1507)に、守護(今の県知事のような役職)の上杉房能に、その下の位の守護代長尾為景がそむき、戦いになりました。応永の戦いもやはり守護と守護代の争いによるものでした。
しかし、これらの戦いは単純な勢力争いではなく、越後の有力な武士たちの利害や近くの国の会津(今の福島県)・信濃(今の長野県)や関東地方の豪族をも巻き込んでの戦いでした。三条島の城をはじめ近くにある城でも地元の武士たちが敵味方に分かれて戦いました。
三条島の城や田上の護摩堂山城、大面城(今の栄町)、黒滝城(弥彦村)などが戦場となりました。三条には山吉孫次郎という武将がいて、長尾為景の味方をして活やくしました。為景が本成寺にあてた手紙の中に「戦いで山吉氏とともによく働いてくれた」という意味のことが書いてあり、このことから本成寺に武士と同じ働きをした僧兵がいて山吉氏といっしょに相手と戦ったことが分かります。(平成7年10月)
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