30 三条(さんじょう)(しろ)(やかた) 〜浦(〜うら)(たて)三条島(さんじょうしま)城〜(じょう〜)

 

 (いま)まで大崎(おおさき)地区(ちく)本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)(やま)にいくつかの山城(やまじろ)があったことを話しましたが、では現在(げんざい)三条市(さんじょうし)中心部(ちゅうしんぶ)である平野部(へいやぶ)にはどんな山城(やまじろ)(やかた)があったのでしょうか。(いま)東裏館(ひがしうらだて)西裏館(にしうらだて)(あた)りを江戸(えど)時代(じだい)裏館村(うらだてむら)と言っていました。

 また三条(さんじょう)(まち)(いま)三条(さんじょう)小学校(しょうがっこう)の近くに江戸(えど)時代(じだい)のはじめころに三条城(さんじょうじょう)がありました。そのことから、三条町(さんじょうまち)(うら)にあたる(ところ)(たて)があったので、裏館(うらだて)と言うようになった、と言われています。しかし、もっと古い時代(じだい)(いま)三条(さんじょう)市街地(しがいち)辺りより裏館(うらだて)(ほう)が早く(はっ)てんしていたことが分かり、三条町(さんじょうまち)(うら)だから裏館(うらだて)というわけではない、と考えられるようになり、「(うら)(たて)」があったことから「うらだて」とよばれるようになった、という(せつ)有力(ゆうりょく)になってきました。

 (うら)というのは、(うみ)(みずうみ)などがわん(きょく)して陸地(りくち)に入りこんだ(ところ)という意味(いみ)です。(いま)から400年から500年前の三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)信濃川(しなのがわ)五十(いか)嵐川(らしがわ)は、(いま)よりずっと川はばが広く、(いま)第一(だいいち)産業(さんぎょう)道路(どうろ)国道(こくどう)289号線)(あた)りから裏館(うらだて)小学校(しょうがっこう)近くまでの一帯(いったい)が水であふれ、(みずうみ)のようになっていて、その(きし)の辺りに(たて)があり、それが、(うら)(たて)であったのではないかと言われています。

 (むかし)(ふね)交通(こうつう)中心(ちゅうしん)で、(うら)というのは重要(じゅうよう)場所(ばしょ)だったのです。(つぎ)三条島(さんじょうしま)(じょう)ですが、三条(3じょう)小学校(しょうがっこう)(あた)りに(しろ)が築かれる(まえ)に、(いま)競馬場(けいばじょう)(あた)りに(しろ)があったのではないかと言われていました。しかし、くわしく調べると、そこに(しろ)があったという証こはなく、(べつ)場所(ばしょ)だったのではないか、という疑問(ぎもん)がありますが、はっきり分かりません。(平成(へいせい)7年8月)