17 三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)荘園(しょうえん)()

 

 平安(へいあん)時代(じだい)鎌倉(かまくら)室町(むろまち)時代(じだい)に、地方(ちほう)領有(りょうゆう)支配(しはい)するものとして荘園(しょうえん)()がありました。荘園(しょうえん)庄園(しょうえん)とも書き(あらわ)すこともあります。

 三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)ではどのような荘園(しょうえん)があったかといいますと、現在(げんざい)()中心部(ちゅうしんぶ)から井栗(いぐり)地区(ちく)(あた)りにかけては大槻(おおつき)(のしょう)があり、本成寺(ほんじょうじ)地区(ちく)から栄町(さかえまち)辺りが大面荘(おおものしょう)加茂市(かもし)中心(ちゅうしん)にして三条市(さんじょうし)一部(いちぶ)をふくむ地いきが青海(おうみ)(のしょう)であったと言われています。また、それらの荘園(しょうえん)より古い時代(じだい)槐田荘(つきたのしょう)三条市(さんじょうし)いきのどこかにあったと考えられています。

 では、このような荘園(しょうえん)はどういうものだったのでしょうか。荘園(しょうえん)発生(はっせい)する(まえ)奈良(なら)時代(じだい)(いま)から(やく)1300年前(ねんまえ)ころは、公地(こうち)公民(こうみん)と言って、すべての土地(とち)国家(こっか)所有(しょゆう)するもので、そこに(はたら)生活(せいかつ)する(ひと)たちは公民(こうみん)である、という(かんが)(かた)(くに)政治(せいじ)基本(きほん)となっていました。しかし、時代(じだい)(うつ)()わりとともに、荒地(あれち)(かい)こんが(すす)められました。そこで、(ちから)のある神社(じんじゃ)(てら)貴族(きぞく)地方(ちほう)豪族(ごうぞく)たちが大勢(おおぜい)(ひと)を動かして土地(とち)(かい)こんし、やがてそれらの土地(とち)有力者(ゆうりょくしゃ)私領(しりょう)となり、荘園(しょうえん)になりました。

 (しょう)とは、もともと身分(みぶん)の高い貴族(きぞく)たちが地方(ちほう)に持っていた別宅(べったく)を言い、別宅(べったく)周囲(しゅうい)土地(とち)もふくめて(しょう)とよんでいました。いまでも、金持ち(かねもち)が持つ別宅(べったく)()しきを別荘(べっそう)と言いますね。()というのはどういうことかといいますと、荘園(しょうえん)は大きな社寺(しゃじ)貴族(きぞく)地方(ちほう)豪族(ごうぞく)私領(しりょう)であったのに対し、()国衙領(こくがりょう)ともいう(くに)直接(ちょくせつ)支配(しはい)する領地(りょうち)言って(いって)よいでしょう。

 三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)では、大崎保(おおさきほ)現在(げんざい)大崎(おおさき)地区(ちく))や粟生田(あおだ)()がありました。これら荘園(しょうえん)()について、(つぎ)でもう少しくわしく説明(せつめい)します。(平成(へいせい)6年4月)