13 三条(さんじょう)地名(ちめい)()こり

 

 わたくしたちの()三条市(さんじょうし)は、いつごろからどうして「三条(さんじょう)」とよばれるようになったのでしょうか。三条(さんじょう)地名(ちめい)()こりにはいろいろな(せつ)があります。昭和(しょうわ)59年(1984)の『こども広報(こうほう)』を見てみましょう。

 ()三条(さんじょう)」の地名(ちめい)歴史(れきし)登場(とうじょう)するのは、(やく)千年前(せんねんまえ)です。三条(さんじょう)左衛門(ざえもん)定明(さだあき)という(ひと)京都(きょうと)から越後(えちご)(くだ)り、当時(とうじ)大槻(おおつき)(または槻田(つきた))という地名(ちめい)(あらた)めて、三条(さんじょう)としたとも(つた)えられています。()()いてあります。(やく)千年前(せんねんまえ)というと、平安(へいあん)時代(じだい)以前(いぜん)、NHKテレビで放送(ほうそう)していた大河(たいが)ドラマ()(ほむら)()()時代(じだい)よりも(すこ)(まえ)になります。その時代(じだい)三条(さんじょう)左衛門(ざえもん)という(ひと)がいたのかどうか、()(つた)えとしてはありますが、千年前(せんねんまえ)記録(きろく)はなにもありませんので、本当(ほんとう)かどうか()かりません。

 また、京都(きょうと)三条(さんじょう)にちなんで三条(さんじょう)になったという(せつ)もあります。ところで、地名(ちめい)()こりを(かんが)えるには、その場所(ばしょ)(むかし)はどういう状態(じょうたい)であったかを調(しら)べてみなければなりません。(いま)から千年前(せんねんまえ)三条(さんじょう)はどんな状態(じょうたい)だったのでしょうか。(むかし)は、三条(さんじょう)(あた)りを(なが)れる信濃川(しなのがわ)はてい(ぼう)がなく、(なが)れはいくつにも()かれ、(なが)れと(なが)れの(あいだ)(しま)ができて河原(かわら)(ひろ)く、陸地(りくち)であっても(ひく)土地(とち)であったと(かんが)えられます。

 現在(げんざい)都市(とし)になっている(ところ)は、みんな(かわ)(ちか)くにあります。(まち)(かわ)(ちか)くに(はっ)てんしたもので、三条(さんじょう)もそうです。(かわ)(なが)れが、みすじ(三条(さんじょう))に(なが)れていたから三条(さんじょう)となったなどとも()われています。また「散所(さんじょ)」が三条(さんじょう)になったという(せつ)もあります。散所(さんじょ)というのは古代(こだい)では税金(ぜいきん)免除(めんじょ)されるかわりに雑役(ざつえき)などをつとめる(ところ)とか、本所(ほんじょ)に対する散所(さんじょ)とも言われています。保内(ほない)には本所(ほんじょ)という場所(ばしょ)があります。どの(せつ)が正しいのでしょうか。三条(さんじょう)地名(ちめい)()こりはなぞに()ちています。(平成(へいせい)5年11月)