10 古代(こだい)三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)地名(ちめい)

 

 三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)のものと(かんが)えられる地名(ちめい)文書(ぶんしょ)記録(きろく)に出てくるのは、古墳(こふん)時代(じだい)からずっと(あと)奈良(なら)平安(へいあん)時代(じだい)になってからです。

 平安(へいあん)時代(じだい)中期(ちゅうき)承平(じょうへい)という年号(ねんごう)のころ(今から1000年余り前)に、「和名(わみょう)類聚(るいじゅ)(しょう)」という記録(きろく)完成(かんせい)しました。これは日本(にほん)最初(さいしょ)にできた百科(ひゃっか)事典(じてん)で、和名(わみょう)(しょう)ともよばれています。この記録(きろく)(なか)に、越後国(えちごのくに)(いま)新潟県(にいがたけん))の地名(ちめい)が書いてあります。

 越後国(えちごのくに)には、頚城(くびき)三島(みしま)古志(こし)魚沼(うおぬま)蒲原(かんばら)沼垂(ぬたり)岩船(いわふね)(ふりがなは(むかし)のまま)の7つの(こおり)(いま)は「ぐん」と読む)がありました。三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)の地いきは蒲原群(かんばらこおり)の中に入っていたわけですが、蒲原群(かんばりこおり)日置(ひおき)桜井(さくらい)勇礼(いくれ)青海(おうみ)小伏(おふせ)の5つの(ごう)がありました。(ごう)というのは、いくつかの(むら)があつまっている一つの地いきのよび方です。

 古代(こだい)(むら)といっても10()ぐらいの小さなものですが、1()あたりの家族(かぞく)大勢(おおぜい)だったと思われます。(ごう)は50()か60()ぐらいの戸数(こすう)がかなり広い面積(めんせき)(なか)にあったのではないかと考えられます。そして、三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)勇礼郷(いくれのごう)とよばれていたのではないかと考えられます。なぜかというと三条市(さんじょうし)には井栗(いぐり)という地名(ちめい)(ところ)があり、それが勇礼(いくれ)()ているからです。「いくり」とか「いくれ」というのは(みず)(なか)(いわ)(つち)がうかび出ている状態(じょうたい)のよび方です。

 古代(こだい)三条(さんじょう)周辺(しゅうへん)は、信濃川(しなのがわ)五十(いから)嵐川(しがわ)にてい(ぼう)がなかったため、(かわ)の流れがたびたび()わり、その(なか)集落(しゅうらく)(しま)のようになっていたことから「いくれ」といった地名(ちめい)()まれたのではないでしょうか。小伏(おふせ)上保内(かみほない)布施谷(ふせたに)(あた)りではないかと()われていますが、そのことは(つぎ)説明(せつめい)します。(平成(へいせい)5年8月)