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三条周辺のものと考えられる地名が文書や記録に出てくるのは、古墳時代からずっと後の奈良・平安時代になってからです。
平安時代の中期、承平という年号のころ(今から1000年余り前)に、「和名類聚抄」という記録が完成しました。これは日本で最初にできた百科事典で、和名抄ともよばれています。この記録の中に、越後国(今の新潟県)の地名が書いてあります。

越後国には、頚城・三島・古志・魚沼・蒲原・沼垂・岩船(ふりがなは昔のまま)の7つの群(今は「ぐん」と読む)がありました。三条周辺の地いきは蒲原群の中に入っていたわけですが、蒲原群は日置・桜井・勇礼・青海・小伏の5つの郷がありました。郷というのは、いくつかの村があつまっている一つの地いきのよび方です。
古代は村といっても10戸ぐらいの小さなものですが、1戸あたりの家族は大勢だったと思われます。郷は50戸か60戸ぐらいの戸数がかなり広い面積の中にあったのではないかと考えられます。そして、三条周辺は勇礼郷とよばれていたのではないかと考えられます。なぜかというと三条市には井栗という地名の所があり、それが勇礼と似ているからです。「いくり」とか「いくれ」というのは水の中に岩や土がうかび出ている状態のよび方です。
古代の三条周辺は、信濃川や五十嵐川にてい防がなかったため、川の流れがたびたび変わり、その中で集落が島のようになっていたことから「いくれ」といった地名が生まれたのではないでしょうか。小伏も上保内の布施谷辺りではないかと言われていますが、そのことは次で説明します。(平成5年8月)
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