4 上野原(うえのはら)いせきと住居(じゅうきょ)()

 

 前回(ぜんかい)に書きました月岡(つきおか)綾ノ前(あやのまえ)いせきは、いろいろな時代(じだい)土器(どき)石器(せっき)が出てきた複合いせき(ふくごう)ですが、大崎(おおさき)地区(ちく)上野原(うえのはら)いせきは、縄文(じょうもん)時代(じだい)晩期(ばんき)という一時代(いちじだい)土器(どき)石器(せっき)がほとんどですので単純(たんじゅん)いせきと言ってよいでしょう。

 上野原(うえのはら)いせきの(はっ)くつ調査(ちょうさ)は、昭和(しょうわ)40年(1965)から3年間にわたり、三条市(さんじょうし)教育(きょういく)委員会(いいんかい)中心(ちゅうしん)になって、三条(さんじょう)商業(しょうぎょう)高校(こうこう)や、三条(さんじょう)東高校(ひがしこうこう)協力(きょうりょく)得て()行われた(おこな)三条市(さんじょうし)では初めての学術的(がくじゅつてき)ないせき調査(ちょうさ)でした。場所(ばしょ)は、大崎山(おおさきやま)グリーンスポーツセンターへ行く()県道(けんどう)ぞいにあります。

 広さ(ひろ)155・36平方(へいほう)メートルほどの大きなゆか面積(めんせき)住居(じゅうきょ)()(ひと)が住んでいたあと)が発くつ(はっ)されましたが、この大きさはこの時代(じだい)一般的(いっぱんてき)住居(じゅうきょ)()の2倍以上(いじょう)もあるのです。また、(はつ)くつされたたくさんの土器(どき)石器(せっき)(なか)土偶(どぐう)という人形(にんぎょう)のような土器(どき)土版(どばん)というまじないなどに使った(つか)思われる(おも)土器(どき)多く(おお)ふくまれていることから、その場所(ばしょ)はお(まつ)りやぎ式などをするために大勢(おおぜい)(ひと)たちが集まる(あつ)集会所(しゅうかいじょ)のようなものとも(かんが)えられます。

 では、縄文(じょうもん)時代(じだい)晩期(ばんき)とはいつごろのことでしょうか。晩期(ばんき)とは終わりに近い時期(じき)ですから縄文(じょうもん)時代(じだい)の終わりころということです。そのあとは弥生(やよい)時代(じだい)になります。弥生(やよい)時代(じだい)は今から1700〜2200年ぐらい前と一般(いっぱん)に言われています。三条市(さんじょうし)歴史(れきし)民俗(みんぞく)産業(さんぎょう)資料館(しりょうかん)にある上野原(うえのはら)いせきの土器(どき)説明(せつめい)では「およそ1700年前」とありますが、はたしてそれが正しいのかどうか分かりません。(平成(へいせい)5年2月)